前回の真我の話に続いて。 真我とは、エゴ以前の自分、形をとる前の自分(つまり魂としての自分とほぼ同じ)です、と説明しましたが、これでいくと、私(アケミ)の真我、あなたの真我、いろいろなひとの真我、というふうにたくさんの真我があるような気がしますよね。でも、究極的には、そうではなくて、この宇宙にはひとつの真我、ひとつの生命(いのち)があるだけです。大いなる存在、っていう言い方もしますね。

このへん、所詮は言葉では説明しきれないんですが。言葉で理解するのではなく、経験して納得するしかないことです。そうなんですが、あえて言葉でできるだけの表現をすると。。。

自然の中にいて、ふっと、自分とまわりのものすべてがシンクロしているのに気づいたことがありませんか。私の住んでいるオレゴン州の小都市は、のんびりしたところで、車の入れない、歩行者と自転車専用の道があるんですが、この間そこを自転車で走っていて、ちょっと息継ぎのために止まった時に、私にもわかりました。道沿いの小川、樹々、お日様の光、風に乗って飛び立つ鳥たち、私。そして、それぞれに歩いたりスケボーしたりしている人たち。みんなみんな、ひとつの生命が、一時的にいろいろな形をとって現れているだけなんだ、って。

それで、私の真我とこの宇宙全体ひとつの生命(大いなる存在)との間に、どこかに境界線があるのかなー、と探ってみると、どこにもないんですよ。

私とは誰なのか、と探っていって、そうか、私がふだん私だと思っているのは私のエゴで、本当の私はもっと大きな「真我」なんだ!と気づく時の真我と、自然や他の人たちとの一体感を感じるときの、この大きな「ひとつの生命」としか言いようのないものと、一見別のもののようで、実は同じ。たとえて言うと、ふいご型のものを、ある方向から見ると大きくて、別の方向から見ると小さいけれど、実は同じもの、っていう感じ。

これ、本当は、すごくシンプルなことなんです。でも、頭で理解しようとすると、頭の中のエゴに邪魔されて、わからなくなってしまう。

でも、一度でも、この一体感を経験してしまうと、人生かわります。

ただ、大抵の場合、ラマナ・マハリシやエックハルト・トールのように、一度ですっかり人生変わってしまうわけではなく、一度目覚めた後も、しばらくするといつの間にかまたエゴの状態に戻ってしまっていて、で、またあれこれ悩んで、苦しんで(前回も書きましたが、悩んだり苦しんだりするのは、エゴの特権です)、そのうちにまた一体感に目覚めて。。。という繰り返しが、しばらく続くでしょう。

じゃあ、単にエゴとして生きていた頃と同じじゃないの?うーん、同じような感じだけど、でも、一度でも自転車のバランスをとることを経験した後は、それからもまだ度々転んでいるにしても、以前とはやっぱり根本的な違いがあるんですよ。あるいは、一度でもオーガズム感じちゃった後は、それ以前とは違うっていうか。

今の私にとって、何より大切なのは、このひとつの生命としての感覚です。できるだけいつも、この感覚を生き生きと感じていたい。アケミ、としての必要なんて、しれてますから。

この感覚がわかる、というのが、つまりは、悟り (エンライトメント)ということです。次回、もう少し詳しく書きます。

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