悟り、っていうのは、元々仏教用語なんですが、今ではずいぶんいろいろな使い方をされています。はっきり言って、あまりにもいろいろな使い方をされている手垢で汚れた言葉なので、私はあまり使わないようにしています。

「悟るためにはどうしたらいいんでしょうか」っていうような質問をするひとは、まず、悟る、というのがどういうことなのか、落ち着いて振り返ってみてはどうでしょう。定義がしっかりしていない概念について話してみても、意味がないじゃないですか。

あえて私なりの定義をするなら、悟り (自己覚醒、英語でいうとenlightenment)というのは、ものごとがはっきり見えていることです

ふだんの私たちは、見えていないんです。ものごとをあるがままに見るのでなく、そのものごとに関する自分の気持ちや記憶・憶測を見ているんです。そして、妄想の中の怪物から逃げ回っているんです。

たとえば、今、景気が悪くて、仕事なくしたひとも多いですよね。で、大抵のひとは、「仕事がない」という状況をあるがままに見ているのでなく、「困った、仕事がない、お金がない、もう人生メチャメチャだ、自分は敗残者だ。。。」とかの、お話を経験しているわけです。

あるがままにものごとが見えていれば、「仕事がない」ということと同じくらいに他のこと、たとえば「今日はよく晴れたいい天気だなあ」とか「家族も自分も元気だな」とか「空と大地とあって、その間に自分や他の人や他の生き物がいるんだな」とかいうこともみえているわけです。

さらに、もう一歩踏み込むと、悟る、というのは、「私」が悟るのではありません。私、というのは、結局は私のエゴです。「エゴはよくないから、気をつけよう」なんて考えているとしたら、それもエゴの一面です。真我は、「よくない」なんていう価値判断はしません。

そうでなくて、悟るのは、私の中にある大いなる存在が目覚めることです。私のエゴが、あれこれ抵抗しているにもかかわらず、それとは何の脈絡もなく、ある時突然「なんだ。すべては、今あるままで完全なんじゃないか!」と気づいてしまうことです。エゴにとっては、これは、とっても不便な状態です。

でもね、そうではあるんだけど、私たちが「悟りたい」って思うのは、やはりいいことなんです。逆説的ですけど、悟れば何かいいことあるんじゃないか、って思って、あれこれしていると、ある時突然、「あ、そんな、いいこととか悪いこと、っていう判断そのものに意味がないんだ」って気づいちゃうことになります。前回書いた、ひとつの生命としての感覚、一体感、に目覚める時がきます。

以上、なんか偉そうに聞こえたら、ご容赦ください。私(アケミ)は、今でも、真我とアケミのエゴの間を行ったり来たりしている未熟者です。ただ、あんまり誤解が多いようなので、これを書くことで誰かの目覚めの契機になれたら。。。と感じて、あえて書きました。

最後に、エックハルト・トールの講演の動画を紹介します。(日本語字幕付き)

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