の話と関係して、真我の話です。真我って、英語の True Self の訳でしょうね。ハイアーセルフ (Higher Self)ともいいます。

ふだん私たちが「自分」だと思っている「私」は、そう思っているだけで、本当の自分ではありません。これは、エゴとか自我(self)とかいいます。別にわがままで自分勝手なひとだけの話でなく、「自分って、こうこう」と説明できるような自分、たとえばいつ生まれて、名前はなんといって、こんな性格で、こんな仕事をしてます。。。というのは、全部エゴ/自我の話です。

言い換えると、エゴっていうのは、形としてのアイデンティティです。そして、この形(からだとからだにまつわる属性すべて)の保護保全のために生きています。保護保全のためにいつもしているのは思考です。

真我っていうのは、そういうエゴ以前の自分、形をとる前の自分です。神様の分霊としての自分、といってもいいかな。厳密にいうと、真我と魂は違うのですが、とりあえずは同じとしておいて大丈夫です。

ここでいう神様っていうのは、お賽銭の額で加護をかえるような安っぽい神様のことではありません。宇宙の大本のエネルギー源、すべての知恵と愛の源、とでもいったらいいのかな。私たちは、全員、この宇宙の大本のエネルギー源から分かれて生じた生命です。

だから、「真我の開発」っていうのは、まるで意味をなさないです。完璧な神様から生じた完璧な真我の、どこをどう開発しようっていうんですか。そういう無駄な考えを捨てれば、自然に、真我が残ります。

「真我を知れば、すべての問題解決ができる」っていうのも、ちょっと違うんだなー。真我は、この世(現象世界)の問題すべてを超越しています。問題を見つけては悩むのはエゴです。しかも、エゴって、問題を見つけて悩む、っていう一人遊びが大好きです。手持ちの問題がなくて不安になったこと、ありませんか?エゴとして走り回っている限り、今ある問題を解決しても、すぐに別の問題を見つけるだけす。エゴを鎮めれば、問題は消滅(解決でなく)します。

真我が本当にわかる、っていうのは、真我って言葉や概念で説明できない、っていうことがわかることです。自分の顔を自分で見ることができないように(鏡は顔の反射像、写真は自分の外のある視点から見た顔の像に過ぎません)、自分の真我を観察して描写することはできません。ただ、「ある」という感覚だけです。

だからこそ、真我の話は大変なんです。もうここにあるし、いつでもあるんだけれど、「真我を知ろう」と思った瞬間、その探求をするのは真我ではない私、つまり私のエゴになってしまうからです。エゴは永遠に真我を知ることはありません。(真我は、エゴを含めて、すべてを知っていますが。)

そうでなくて、エゴの余分な思考(私たちがしている思考のほとんどすべて)を根気よく捨てていくと、ある時ふっとわかります。

どんな感じかっていうと、たとえば目の前に木があるとして、その木と自分がつながっている感じ。あるいは、自分の人生を振り返って、つらかったことも楽しかったことも含めて、「あーそうか」と妙に納得できてしまう感じ。

でも、その一体感や納得を言葉で説明しようとすると、その瞬間に真我にかわってエゴがしゃしゃり出てきます。だから、真我って、言葉では説明できなくて、体験するしかないんです。

以上、多分、わかったようなわからないような話だなー、と思われたでしょうが。。。そう、しつこいようですが、その「思った」のは、エゴがしている思考です。それを手放すと、真我の体験に一歩近づきます。

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