12 29 2010 by Akemi
エゴ(自我)と真我
真我の話に関連してエゴ(自我)の話はもうしましたが、エゴってとってもこズルいわかりにくいものなので、もう一回、しつこく書かせていただきます。
なお、日本では「自我」をエゴの訳語にしているようですが、これ、わかりにくいと思います。だって、自我っていうのは、単純に自分をさしている語で、エゴをさしているのか真我をさしているのかはケースバイケースですから。もちろん、ほとんどの場合、エゴのことなんですが。で、妥協案として、ちょっとうっとうしいですが、「 エゴ(自我)」という表記をしています。
エゴ(自我) っていうのは、ふだん私が私だと思っている自分のことです。で、これまで、真我に対して「エゴ」という存在が、まるでひとつの独立した存在としてあるかのように話してきましたが、実はそうではありません。 エゴ(自我) っていうのは、自分のしている思考の総合体、考え方のクセ、そういうメカニズムであって、個性のある(有形無形を問わず固有の)存在ではないんです。
だから、「エゴの死」というのはありえないです。そもそもアイデンティティを持って存在するものではないですから。
悟り (エンライトメント)の記事で、悟るのは私(つまりは、私のエゴ)ではありません、と書いたのもこのせいです。エゴ(自我)は、どんな努力をしようと永遠に悟ったりしません。悟った時、つまり真我が目覚めた時(真我に目覚めるのではありません)、「なんだ、エゴって本来の私とはまるで別のものじゃん」とわかるだけです。
だから、エゴ(自我)を憎むのは、ヘンな話です。エゴを嫌がっている自分、というのは、結局は、エゴのもうひとつの面に過ぎません。真我は、何かを嫌がったり、価値判断したりしません。すべてを含んで限定できないのが、真我の本質ですから。
あー、ややこしい。言葉で考えているとわからないはずです。
私の経験からいえるのは、要するにエゴ(自我)にヘンにエネルギーを与えないことです。何か問題が起きた時(言い換えると、エゴが「大変だ!これは問題だ!」とわめきだした時)、押さえ込むこともせず、言い返すこともせず、あれこれなだめる努力もせず、瞑想の時に浮かんでくる雑念をただ見つめているだけ、というのと同じ感じで、ただ観察する。
「あーそー」
もちろん、実際にこれをするのって、結構大変です。私たちはみんな、エゴ(自我)が自分なんだと信じて、その欲求に従うように、あるいはそれに逆らってコントロールするように、条件付けされていますから。力を抜くのって、力を入れるより練習が必要だったりします。(武術とかする方、そうじゃないですか?)
あと、もうひとつ役に立つのは、できるだけ自然の中で過ごすこと。エゴ(自我)っていうのは、結局は人工的な仕組みなので、自然のエネルギーの中で真我が目覚めるのを邪魔するような力は、ないです。
エゴが役に立つ時もあります。個体としての自分を保存する策を考えださなくてはならない場合です。たとえば、山を歩いていて熊とであった時、走って逃げるか、近くの木に登るか、死んだフリをするか、急いで決めるのはエゴ(自我)のはたらきです。
でも、こんな緊急事態って、めったにないですよね。私たちがふだん受けているストレスのほとんどは、エゴの錯覚と誇大被害妄想によるものです。だから、いつまでもエゴとしての自分を自分だと思い込んでいるのは、大変です。悟りが貴重なのは、このためです。