Archive for the '魂・真我' Category

01 14 2011 by Akemi

アカシックレコードに見る魂の成長

魂の成長、っていうのも、誤解の多い概念です。大抵の人が魂の成長だと思っているのは、エゴの思い上がりに過ぎません。

アカシックレコードを見れば、確かに、その魂が発達のどのへんにあるのかわかります。中には、アセンションに伴う魂の入れ替わりを、既に終えている方もあります。

でも、そのことと、「私ってスピリチュアルな努力をしているの」「苦しいことも、みんな、魂修行の一部よね」とか思っていることとは、あまり関係ないです。あまり、っていうのは、歯切れの悪い言葉だなー、っていうのはわかっています。もっと丁寧にいうと、人生のチャレンジが魂の成長に寄与するのは事実ですが、本人がそう思って、いわゆる努力をして、口に出していうかどうかはともかくとして、内心、自分は特別によくできた、もののわかった人間だ、なんて思っているとしたら、そのくらい魂の成長と無関係なことってないです。無関係どころか、それは、エゴにえさを与えているわけで、逆効果です。

本当に成長し、発達している魂っていうのは、そういう「私対他の人」というものの見方をしません。究極的には、私たちみんな、つまり未熟な魂や自分の個人的な好みに合わない魂なども含めてみんな、ひとつなんだ、ということがわかっていますから。(このへん、「え、そうなの?」と思った方は、こちらの真我の記事を読んでくださいね。)

じゃあ、スピリチュアルな本を読んだり、瞑想したりするのは、無意味なのか、っていうと、そうではないんです。悟り(つまり自己覚醒)の記事でも書いたように、このへん、逆説的ではありますが、道を求めて努力すること自体はいいんです。問題は、自分の努力に対する執着です。

そういう執着のある人は、努力しないで悟ってしまう人に我慢がならないようです。で、実際、努力しないで覚醒してしまう人もたくさんいるんですよね。だって、努力と魂の成長との間には、相関関係があるわけではないですから。

自己覚醒に関していえば、一番よくあるパターンは、真摯に努力してきた人が、ふっと力を抜いた時、つまり、最後まで残っていた執着を手放した時、おきるようです。

私が、私が、と自己主張し、たとえば、「私、有名な00先生の本を全部読んだのよ」「私はセミナーに出席して、直接お話をしたわ」「私は、もう20年、毎日瞑想しています」なんていうのは、エゴが話しているので、印象的ではありますが、魂の成長にはなりません。

ついでに、物質主義のこと。魂の成長した人は物事にこだわらないようになってきますが、これは、ものを持つことを蔑むことと同じではありません。もの、特に高価なもの、贅沢なものを、精神の敵のように思って、とにかくものを持たないことが偉いのだ、と思うのは、要するにものに執着しているわけです。差別も反差別も、差別の一種です。

まあ、あまりにもものに囲まれていると、それを失うことが怖くなってくるので、そういう意味では、簡素な生活の方が魂の成長には良い環境でしょうが。

なお、私のアカシックレコードリーディングでは、魂の成長度を人との比較で話すことはしていません。実は、私と私のアカシックレコードガイドとの間では、数字でだいたいの感じをつかんでいるんですが、それをクライアントの方に話すと、どうしても人と比較したくなってしまうようなので。魂の成長度って、偏差値とは違うんですよ。要は、自分の成長で、人と比較していては、エゴが肥大するだけです。

  • にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
    にほんブログ村 <<応援クリック、ありがとうございます。ヘンな努力をしないで幸せになる方法、みんなに広めましょう。
  • 私のアカシックレコードリーディングについては、ホームページをご覧ください。
PrintFriendlyTwitterGoogle ReaderShare

01 10 2011 by Akemi

老子の道(タオ)と量子力学

老子の冒頭の一章は、高校の漢文の授業で多分読まれたでしょうが、量子力学にも通じるすごいことが書いてある、ってわかりました?

私は、読み下し文で読んだ時にはよくわからなかったんですが、英訳を読んでやっと納得しました。これは、その英訳を私が日本語に訳したものです。(かなりの意訳です)

これが道(タオ)です、と指し示すことができるのは、永遠の道ではない。
つけられた名前は、真の名ではない。

名前をつけられず、言葉で説明できないものが、宇宙のおおもとである。
名前をつけることが、具体的なものごとの起源である。

欲求のない時、この不思議な真理がわかる。
欲求にとらわれてしまうと、現象として現れたものしか見えなくなる。

それでいて、真理と現象はひとつのものからおきている。見方が違うだけである。
その本質は玄妙である。

どこまでも玄妙である。
これがすべてのものごとを理解する鍵である。

ヤボな注釈かとは思いますが、ここでいう「玄妙」というのは、あらゆるものごとが形をとる以前の、光さえ生じる前の、混沌とした状態のことです。

私は理工系は苦手なんですが、最先端の量子力学がいわんとしているのは、要するにこれと同じなんじゃないですか。学校では、原子がすべてのものごとを組み立てる最小レベルのブロックだと習ったけれど、本当は、その原子の中には陽子や電子があって、それを操作することで原子の種類そのものさえ変えられる。そして、電子は粒子であると同時に確率として存在する波動(エネルギー)でもあって、「さあ、これが電子ですよ」といって取り出すことができない。

私たちが、ふだん、現実として存在している、と思い込んでいるものごと(たとえばリンゴ、とか、私のからだ、とか)も、実は一時的にそういう風に見えているだけで、本質は不定形で常に変化し続けている、まわりと渾然としたものなんです。究極的には、すべてはエネルギーですから。(そして、このすべての元となるエネルギーを、古代インド人は「アカシャ(エーテル)」と呼んだわけです。)

でも、前回にも書きましたが、この現象界が意味のない、つまらないものな訳ではないです。ここ、いわゆるスピ系の人、気をつけてくださいね。

現象、つまり形にとらわれることは不自由で苦しい生き方ですが、形を卑下して、魂とかの方が大切だ、と思うのは勘違いな生き方です。(無形の、たとえば、魂、というのも、広い意味での現象ですし)

しばらくアカシックレコードの話からはなれましたが、この魂と真我、真我の覚醒(悟り)の話は、すごく大切なんです。ここをハズすと、ただのオカルトファンとかわらなくなってしまいます。ということで、わかりにくい話におつきあいいただきました。

次回からは、スピリットガイドのシリーズです。日本では、「守護霊」っていう言い方もありますが、守護以外にもいろいろしてくれるんですよ。

  • にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
    にほんブログ村 <<クリックすると、他のおもしろいブログのリストに行きます。
  • 私のアカシックレコードリーディングについては、ホームページをご覧ください。
PrintFriendlyTwitterGoogle ReaderShare

01 04 2011 by Akemi

現象界と現象以前のエネルギーの世界

私たちは、二つのレベル、というか、性質の違う二つの世界に、存在しています。ひとつは現象界、つまり、ふつうに「現実」として認知されているもの。もうひとつは、現象として現れる以前のエネルギーの状態で、これを実在界とか実相とか真相とかいう人もいるようですが、私としては、用語はできるだけシンプルにして既成の宗教との混乱を避けたいので、エネルギーの世界、と呼んでいます。

現象界とエネルギーの世界は、別々のものではありません。同じものが、見方によって違って見えるのです。

たとえて言うと、電光掲示板のようなものです。大きな電光掲示板には、すごくたくさんの電球がありますよね。現象というのは、この電光掲示板の上で光っている電球だけを見て、ある画像だ、と認識することです。でも、今点灯していない電球も存在しないわけではないです。エネルギーの世界、というのは、この今は点灯していない、だからちょっと離れると見えない電球まで含めて、電光掲示板全体のことを言っているわけです。

今光っていない電球も、エネルギーの流れをかえてやると、点灯します。そうなると、全体として見える画像もかわるわけです。

だから、現象界とエネルギーの世界は、結局は同じもので、どちらが大切とか立派とかいうものではありません。ただ、エネルギーの世界がある、ということを知っていないと、現象の変化に翻弄されて、とっても疲れるでしょう

エネルギーの流れをかえるのは、あなたにもできます。引き寄せの法則は、そのひとつの方法です。引き寄せがきいてびっくりするのは、電光掲示板の画像がかわってびっくりするようなものです。仕組みがわかっていれば、そんなに驚くことではないです。

このエネルギーの世界、っていうのは、つまりは真我、大いなる存在、宇宙のひとつの生命、のことです。神、っていういいかたもありますね。

現象という見方をすると、私たち一人一人には、個としての肉体があり、その肉体を動かすエネルギー体であるがあるわけです。現象以前、現象として見えるものを超えたエネルギー全体として存在するのは、たったひとつの生命だけです。

じゃあ、天上界って何?という質問には。天上界を、なにかとんでもなくすばらしいもののように思っている人もあるようですが(「天上」っていうくらいですから)、実は、天上界も現象界の一部です。この世もあの世も、個としての意識のある世界は、すべて現象界です。あるいは、天上界を除いた現象界を、狭義の現象界、と呼ぶのでしょう。

現象界は意味があって存在しています。大いなる存在の分霊である魂が自分を表現し、いろいろな経験をすることで、自分についての理解をするためです。このため、現象界を、「表現のフィールド」とか「経験の場」とかと呼ぶこともあります。

この二つの世界の考え方は、古今東西いろいろな賢者がいっています。次回は、その例のひとつ、老子です。そう、この考え方は最近誰かが思いついたような底の浅いものではないんです。

  • にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
    にほんブログ村 <<応援クリック、ありがとうございます。
  • 私のアカシックレコードリーディングについては、ホームページをご覧ください。
PrintFriendlyTwitterGoogle ReaderShare

12 29 2010 by Akemi

エゴ(自我)と真我

真我の話に関連してエゴ(自我)の話はもうしましたが、エゴってとってもこズルいわかりにくいものなので、もう一回、しつこく書かせていただきます。

なお、日本では「自我」をエゴの訳語にしているようですが、これ、わかりにくいと思います。だって、自我っていうのは、単純に自分をさしている語で、エゴをさしているのか真我をさしているのかはケースバイケースですから。もちろん、ほとんどの場合、エゴのことなんですが。で、妥協案として、ちょっとうっとうしいですが、「 エゴ(自我)」という表記をしています。

エゴ(自我) っていうのは、ふだん私が私だと思っている自分のことです。で、これまで、真我に対して「エゴ」という存在が、まるでひとつの独立した存在としてあるかのように話してきましたが、実はそうではありません。 エゴ(自我) っていうのは、自分のしている思考の総合体、考え方のクセ、そういうメカニズムであって、個性のある(有形無形を問わず固有の)存在ではないんです

だから、「エゴの死」というのはありえないです。そもそもアイデンティティを持って存在するものではないですから。

悟り (エンライトメント)の記事で、悟るのは私(つまりは、私のエゴ)ではありません、と書いたのもこのせいです。エゴ(自我)は、どんな努力をしようと永遠に悟ったりしません。悟った時、つまり真我が目覚めた時(真我に目覚めるのではありません)、「なんだ、エゴって本来の私とはまるで別のものじゃん」とわかるだけです。

だから、エゴ(自我)を憎むのは、ヘンな話です。エゴを嫌がっている自分、というのは、結局は、エゴのもうひとつの面に過ぎません。真我は、何かを嫌がったり、価値判断したりしません。すべてを含んで限定できないのが、真我の本質ですから。

あー、ややこしい。言葉で考えているとわからないはずです。

私の経験からいえるのは、要するにエゴ(自我)にヘンにエネルギーを与えないことです。何か問題が起きた時(言い換えると、エゴが「大変だ!これは問題だ!」とわめきだした時)、押さえ込むこともせず、言い返すこともせず、あれこれなだめる努力もせず、瞑想の時に浮かんでくる雑念をただ見つめているだけ、というのと同じ感じで、ただ観察する。

「あーそー」

もちろん、実際にこれをするのって、結構大変です。私たちはみんな、エゴ(自我)が自分なんだと信じて、その欲求に従うように、あるいはそれに逆らってコントロールするように、条件付けされていますから。力を抜くのって、力を入れるより練習が必要だったりします。(武術とかする方、そうじゃないですか?)

あと、もうひとつ役に立つのは、できるだけ自然の中で過ごすこと。エゴ(自我)っていうのは、結局は人工的な仕組みなので、自然のエネルギーの中で真我が目覚めるのを邪魔するような力は、ないです。

エゴが役に立つ時もあります。個体としての自分を保存する策を考えださなくてはならない場合です。たとえば、山を歩いていて熊とであった時、走って逃げるか、近くの木に登るか、死んだフリをするか、急いで決めるのはエゴ(自我)のはたらきです。

でも、こんな緊急事態って、めったにないですよね。私たちがふだん受けているストレスのほとんどは、エゴの錯覚と誇大被害妄想によるものです。だから、いつまでもエゴとしての自分を自分だと思い込んでいるのは、大変です。悟りが貴重なのは、このためです。

  • にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
    にほんブログ村 <<応援クリック、ありがとうございます。
  • 私のアカシックレコードリーディングについては、ホームページをご覧ください。
PrintFriendlyTwitterGoogle ReaderShare

12 23 2010 by Akemi

悟り (自己覚醒 )とは

悟り、っていうのは、元々仏教用語なんですが、今ではずいぶんいろいろな使い方をされています。はっきり言って、あまりにもいろいろな使い方をされている手垢で汚れた言葉なので、私はあまり使わないようにしています。

「悟るためにはどうしたらいいんでしょうか」っていうような質問をするひとは、まず、悟る、というのがどういうことなのか、落ち着いて振り返ってみてはどうでしょう。定義がしっかりしていない概念について話してみても、意味がないじゃないですか。

あえて私なりの定義をするなら、悟り (自己覚醒、英語でいうとenlightenment)というのは、ものごとがはっきり見えていることです

ふだんの私たちは、見えていないんです。ものごとをあるがままに見るのでなく、そのものごとに関する自分の気持ちや記憶・憶測を見ているんです。そして、妄想の中の怪物から逃げ回っているんです。

たとえば、今、景気が悪くて、仕事なくしたひとも多いですよね。で、大抵のひとは、「仕事がない」という状況をあるがままに見ているのでなく、「困った、仕事がない、お金がない、もう人生メチャメチャだ、自分は敗残者だ。。。」とかの、お話を経験しているわけです。

あるがままにものごとが見えていれば、「仕事がない」ということと同じくらいに他のこと、たとえば「今日はよく晴れたいい天気だなあ」とか「家族も自分も元気だな」とか「空と大地とあって、その間に自分や他の人や他の生き物がいるんだな」とかいうこともみえているわけです。

さらに、もう一歩踏み込むと、悟る、というのは、「私」が悟るのではありません。私、というのは、結局は私のエゴです。「エゴはよくないから、気をつけよう」なんて考えているとしたら、それもエゴの一面です。真我は、「よくない」なんていう価値判断はしません。

そうでなくて、悟るのは、私の中にある大いなる存在が目覚めることです。私のエゴが、あれこれ抵抗しているにもかかわらず、それとは何の脈絡もなく、ある時突然「なんだ。すべては、今あるままで完全なんじゃないか!」と気づいてしまうことです。エゴにとっては、これは、とっても不便な状態です。

でもね、そうではあるんだけど、私たちが「悟りたい」って思うのは、やはりいいことなんです。逆説的ですけど、悟れば何かいいことあるんじゃないか、って思って、あれこれしていると、ある時突然、「あ、そんな、いいこととか悪いこと、っていう判断そのものに意味がないんだ」って気づいちゃうことになります。前回書いた、ひとつの生命としての感覚、一体感、に目覚める時がきます。

以上、なんか偉そうに聞こえたら、ご容赦ください。私(アケミ)は、今でも、真我とアケミのエゴの間を行ったり来たりしている未熟者です。ただ、あんまり誤解が多いようなので、これを書くことで誰かの目覚めの契機になれたら。。。と感じて、あえて書きました。

最後に、エックハルト・トールの講演の動画を紹介します。(日本語字幕付き)

  • にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
    にほんブログ村 <<応援クリック、ありがとうございます。
  • 私のアカシックレコードリーディングについては、ホームページをご覧ください。
PrintFriendlyTwitterGoogle ReaderShare